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ゆたさん喋っちゃうよブログ

ゆったり;-)がブログ始めました!!!日常のこと、音楽のこと、世間話等々喋って行くよ~😀

シェイクスピアの『テンペスト』を読んでみて思ったこと

  1. はじめに

今回、シェイクスピアの「テンペスト」を読んで私は感じたのはまず普通に読書するにはとても読みにくいということであった。この作品は劇の台本のようなものであり、基本的な場面設定以外はセリフのみで進行していき、読み進めるためには行間一つ一つのイメージをしっかりイメージしつなげていかなければつかみにくい。また、劇中のセリフであるからか、とても誇張した表現やおおげさな言い回しのセリフが多く物語の初盤ではかなり読者側のエネルギーも必要である。17世紀のイギリスにおいて創作されていることに加え魔法などの想像上の産物が登場しているため、この作品中の基本的な環境に適応するためには、読者はこの作品の登場人物の一人になるくらいの没入感が必要とされると感じた。物語に登場する人物たちのセリフを理解しイメージし、この作品の魅力を感じるにはどうしたらよいのか、またこの作品やシェイクスピアの作品を読書することが現代ではどのように個人の向上につながるのかということを考えてきたい。

  1. 演劇的であるか映画的であるという読み方による違い

私はこういった作品の読み方についてもし分類できるならば二通りの読み方があると考える。まず一通り目はこの作品の環境を演劇として捉える、または演劇のある演者の一人として読者としておく読み方である。次に二通り目はこの環境を映画のスクリーン内として捉えその映画の環境内のひとりとして読者をおくのである。前者と後者にとって共通な読者に必要とされる最低条件はこの物語の中にいながら作品をとおして唯一の証言者になることである。セリフのみで物語が進行する劇の台本を読んでいく際にはどうしても客観的な読者としての参加や作品の俯瞰的な読者になることは難しい。そもそも客観的な事実というものがほぼなく、読者がし続けなければならないのは登場人物の言動を理解しつなげていくことで解釈を産み出し、一連のストーリーを紡ぎなおすことであり、物語を自分なりに整理しなおすことが重要になってくる。この最低条件を意識しながら二通りの読み方をしていくとどのような違いが出てくるであろうか。

  1. 2つの読み方による場面考察

私が印象的であったのはミランダとフィーデナンドが初めて出会いお互いにひかれあう中、プロスぺローがフィーデナンドを試すシーンである。この場面では演劇的に読む場合と映画的に読む場合では顕著に違いが現れる。まず、この場面について私はプロスペローについて考察することが重要であると考える。難破船から辛くも生き残り疲弊したフィーデナンドはこの世のものとは思えないような音楽と声を耳にする。またミランダもフィーデナントを見るやいなや人間を超えた気高さや妖精や天上のものを思わせる魅力を感じる。この場面においてフィーデナントとミランダは純粋に初見の互いに惹かれあってると捉えていい。ここで客観的な立場にいるのがプロスペローと妖精である。この場面においてプロスペローは自分の復讐にフィーデナントを利用したいがために娘のミランダまでも利用しようともくろんでいる。プロスペローの思惑の表現や影響の方法を考えると演劇的か映画的かで差が出てくる。この場面においてセリフは三者のものしかないが、実はその話す相手は最大四通りある。プロスペローはフィーデナントとミランダを惹かれあわせた妖精に対して、ほめる発言しているのだ。もしこの場面に惹かれあうフィーデナントとミランダ、プロスペロー、妖精、そして読者がいるとイメージする。

  1. 演劇的に読む

まず演劇的に読んでみるときに、舞台上に完全に5人がいて場面全体においてぜんいんが登場していると考えると、もし仮にプロスペローが妖精に話しかける場面においてその瞬間その二人だけが何らかの舞台装置でクローズアップされたとしても、読者はこの場面では本筋ではない二人のストーリー上の関係だけでなく、妖精とフィーデナント、ミランダの関係まで少し想像するのではないか。仮にその関係が何かの伏線を踏んでいるわけではないとしても否応なく気にかかるのではないか。

  1. 映画的に読む

では次に映画的に読んでみる。場面的には5人しか登場しないが、前後のセリフの話者やその発言内容に限定して読者の見えるイメージが細かに変わっていくのではないか。奇跡的な音楽と歌を聴くフィーデナントから、それを俯瞰する親子、そして言葉をかわす3人の流れに一瞬はいりこむプロスペローと妖精の一方通行の会話。セリフの前後の関係や登場人物の人間関係をある程度限定的にとらえある場面の内部をさらに細かく区切ってスクリーンに表現することでより多様で細かい場面内の情報を読むものに伝える。

  1. 差異に見えてくるもの

おそらくプロスペローの誉め言葉を受け取る妖精の表情にも演劇的か映画的かで変化するように思われる。妖精自身は職務を全うしているのか、ある程度の魔法の被影響者に対しての感情があるのかどうか。二通りの読み方によって浮かび上がってくるものは読者の想像力がどこまで許されてくるのかという限界である。演劇的に読むことはある意味、読者自身は登場人物らと少し遠い位置に立ち人間関係や環境を抽象的•俯瞰的にみるように感じストーリーの思わぬ細部や人間関係を想像する余地がうまれる。逆に俯瞰的であることは没入感が損なわれる傾向になりやすくなり現実と物語の境界を意識しがちになるということである。映画的に読むことはある場面における最低限細かくイメージを分割し、人間関係や環境をより具体的に読者に伝え、細かい場面展開イメージの展開によって場面における読者の没入感を最大限にする。没入感があり読者自身もより鮮明にストーリーを追いながらもそのストーリーに参加することはできないことから、演劇的に読む場合とはまた異なる疎外感も感じやすいともいえる。

  1. 読者の思考の多様性

 私が思うに人が読書するときにはおそらく2つの読み方を適材適所に取り混ぜながら読むように感じるが、メインとなるのは映画的な読み方であろう。メディア媒体の進化という視点からみてもメディア媒体の物語に没入させる傾向が強くなっている。動画メディアの普及やVRの登場などはその最前線にある。現代においてはメディアの受け取り手にいた私たちも手軽に発信する立場に置かれているが、その発信する情報を支える元になった情報や知識を得る際に私たちがどのように「よんでいる」かということは非常に重要である。動画媒体や仮想現実の提供情報は没入感に富むものが多い。ここで気を付けるべきことは私たちが得る情報や理解や解釈の幅である。整理された情報は読みやすく使い勝手が良いが、それは他人にとっても同じであり、読者の理解や解釈の多様性にとっては危険な側面も持ち合わせている。このシェイクスピアの『テンペスト』を読んで、劇の台本である読みにくさを感じたが台本であるからこそ見えてくる読書の方法や知識の得方があると感じる。それは一見物語をたどるには「ムダ」な想像も生まれるかもしれないが、重要な読者の思考や解釈の多様性をうむことにつながり、古典の重要性をしることになる。